広島市/広島

一本の針に、誇りと技をこめて
しなやかで、折れにくく、通りがいい
チューリップが紡ぐ「広島針」の歴史

広島市/広島

原田 耕太郎_チューリップ

2025.06.11

1948(昭和23)年に広島市で創業して以来、手縫針やまち針、レース針、かぎ針などの手芸用針を製造し、国内外へ広く販売してきたチューリップ株式会社。同社は広島県針工業共同組合に加盟しており、この組合が管理する地域団体商標が「広島針」です。

現在、広島は手縫針、まち針の全国生産量の9割以上を占めています。国内だけでなく、世界有数の産地としても知られていますが、その起こりは約300年前の江戸時代にまでさかのぼります。なぜ広島で製針業は起こり、根付いたのでしょうか。そして、どのようにして今日まで発展してきたのでしょうか。「広島針」の歴史を紐解きます。

山県郡安芸太田町加計地区にある、チューリップの「加計工場」

地の利を味方に製針業を開始

広島の製針業は、約300年前、広島藩主であった浅野家の命により始まった。長崎から針職人の木屋治左衛門(きやじざえもん)を現在の広島市内に呼び寄せ、手縫針の製法を下級武士に教え、内職として普及させるよう命じたとされている。

浅野家が製針業に目をつけたのは、当時、手縫針が生活に欠かせない貴重な道具であり、非常に高価だったから。その手縫針が特産品となれば、藩の財政が潤うと考えたのだ。また、藩の地理的条件も大きな要因となった。広島湾に注ぐ太田川の上流約50kmに位置する加計(現在の安芸太田町)は、中国山地の大砂鉄地帯にあり、出雲と並ぶ「たたら製鉄」の中心地として栄えていた。製針の材料である鉄を、太田川の水運を利用して広島市内へ運びやすかったのだ。

こうして広島市内で加工された手縫針は、広島湾から海運によって江戸や大阪に運ばれ、さらにそこから全国各地へと販売されていった。

「高殿内と銑(ずく)押し作業」紙本著色隅屋鉄山絵巻:加計 正弘氏 所蔵

機械化により増産、世界の市場へ

針の一大産地となった広島は、明治時代に入ると機械の導入により、さらに発展を遂げる。ドイツから製針機械の一部を入手して研究する製針所が現れ、試行錯誤の末、明治末期には独自の製針機械が開発された。他の産地に先駆けて機械化したことで、広島針は増産が可能となり、流通量も伸びていった。

さらに、第一次世界大戦が勃発すると、主要産出国であったイギリスやドイツから針を輸入できなくなった世界中から、日本に買い付けに来るようになる。これを受けて、それまで国内向けの手縫針のみを生産していた広島の製針所の中から、輸出に乗り出すところが急増。広島針は海外へも広まっていった。

しかし、第二次世界大戦がこの勢いに影を落とす。材料の鉄線が配給制となり、強制企業合同のため、一時は200社あった製針所は100社にまで激減。さらに、原爆が投下され、その全てが失われた。それでも、広島の製針業は再生への道を歩み始める。焼け野原に1社、2社と創業を再開し、2,3年後には40社あまりが復興。高度経済成長とともに売り上げを伸ばしていった。

高度経済成長期も稼働していた製針機は今でも現役

世界に誇れる「広島針」をこれからも

その後も、広島の製針業は発展を続けた。1973(昭和48)年には、品質の向上と均一化を図るため、材料を全て鋼線に変更。それに伴い無酸化電気炉を開発し、焼入れ過程を安定化させ、硬く、弾力のある針の実現を目指した。その結果、広島針は海外市場においても、今まで以上に高い評価を得ることとなる。さらに、2008(平成20)年には広島県針工業共同組合の働きにより、地域団体商標に登録。世界に誇れる地域ブランドとして、国内外へのさらなる展開が期待される。

広島県針工業共同組合の一員であるチューリップは、かつてのたたら製鉄の地であり、広島針の始まりの一端を担った加計に工場を設置。伝統的な製法を受け継ぎつつ、新たな視点で多彩な手芸用針を生み出している。300年の歴史の上に築かれた、「曲がりにくく、よくしなる、最高の布通り」を、ぜひ体感してみてほしい。

太田川上流域に位置する加計地区は豊かな自然環境に恵まれている

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