三次市/広島

山で草を食み、命をつなぐ
山地酪農で育まれたミルク
三良坂に息づく、チーズ工房

三次市/広島

松原 正典_三良坂フロマージュ

2025.10.29

広島県三次市の山間にある町・三良坂。この静かな土地に根を下ろし、牛やヤギを自然放牧で育てながら、本格ナチュラルチーズを製造しているのが「三良坂フロマージュ」です。手がけるのは、松原正典さんとその家族を中心としたチーズ工房。2004年の創業以来、「自然と向き合い、命と向き合うチーズづくり」を掲げ、すべて無添加・手づくりにこだわった製品を届け続けてきました。

牧草地でのびのびと過ごす動物たちのミルクは、季節や気候によって微妙に味わいを変え、それがチーズの個性にもつながっていきます。手間も時間もかかる一方で、そのすべてが「命の営み」と向き合う実感になる——。そんな信念のもとで営まれる三良坂フロマージュのチーズづくりには、生産や流通の効率だけでは語れない、豊かな思想と哲学が息づいています。

今回の記事では、創業当初からの思いや、チーズづくりに込められた哲学、そして未来への展望まで、三良坂フロマージュのこれまでとこれからを紐解いていきます。代表・松原正典さんへの取材とともに、その「生き方としてのチーズづくり」に迫ります。

思いを語る、代表の松原さん

動物たちと、山の営みの中で

搾乳小屋の一角をのぞくと、整列した11頭の山羊たちが、まるで「はい、いま集中してるからね」とでも言いたげな表情で、じっとお尻を並べている。搾乳中の彼らにそっと近づいてみると、顔をのぞかせた瞬間、全員が同時にこちらを振り向く。そんな律儀さにも思わず笑みがこぼれる。

この日はちょうど搾乳の時間。すぐ隣には2頭の牛がいて、こちらも黙々と乳を搾られている。山羊に比べると何倍もの体躯を持つ牛の乳房は、まるでふくらんだ風船のように大きく、1回の搾乳で10リットルほどのミルクを出すのだとか。終わった後のぺしゃんこになった姿とのギャップにも驚かされる。

小屋の外では、搾乳を終えた牛や山羊たちが、思い思いの時間を過ごしていた。草を食べ、ひなたぼっこをし、木陰でくつろぎ、時には通りかかるこちらをじっと見つめる。珍しい来訪者を前に、遠巻きに観察してくる山羊もいれば、バッグをくわえて引っ張ってくるやんちゃな子もいる。動物たちが自分の時間を生きるこの風景には、どこか優しく、心を和ませる力がある。

山で草を食み、命をつなぐ「山地酪農」

牛たちが自由に歩き回るのは、三良坂フロマージュが取り組む「山地酪農」というスタイルゆえ。平地での飼育とは異なり、木々が点在する山の斜面に広がる放牧地で、自然の草や木の葉、木の実を食べながらのびのびと過ごすのが特徴だ。

この仕組みの魅力は、自然の営みそのものにある。牛が草を食べてミルクを出し、糞をして土に還る。それがまた大地を肥やし、新たな草が生えるという、循環の中に成り立つ飼育方法。無理なく自然の力に寄り添いながら、牛と山、そして人の暮らしがゆるやかにつながっている。

山の放牧地に出る前の若い山羊や牛たちは、工房のすぐそばで育てられている。小さい頃から人と触れ合いながら育つためか、動物たちは人に対しても物怖じしない。草を食べながらのんびり歩き、人の気配がしても動じることなく、そのままのペースで暮らしを営んでいる。その穏やかな時間の流れこそ、三良坂フロマージュの風景の一部だ。

軽い気持ちから、本気の酪農へ

三良坂フロマージュ代表・松原正典さんは、もともと大阪で育った。母の実家がある三良坂を訪れるたび、大自然に囲まれたこの地に心惹かれたという。農業短大へ進学したのも、どこかで「これからは農業の時代が来る」という直感があったから。

とはいえ、最初はアルプスの少女ハイジのような「牧歌的な酪農ライフ」に憧れていただけだった。「動物と暮らすなんて面白そう」という程度の動機だったが、実際に短大で酪農を学ぶうちに、その世界の奥深さと厳しさに魅了されていった。

卒業後はアメリカ、そしてオーストラリアへと渡り、大規模農場での研修を経験。過酷な労働環境、効率一辺倒の飼育体制、早すぎる牛の寿命──命を扱う現場に向き合う中で、「このままでいいのか?」という疑問が松原さんの中で芽生えていった。そしてある日、亡くなった牛を運ぶ彼のもとに、千頭の牛たちが怒りの声を上げて集まった。

「その時は涙が出てきました。『私たちはこんなに人間のために尽くしているのに、なぜこんな扱いをされなければならないの?』と、牛たちの声が聞こえてきた気がしました」。その体験が、松原さんにとっての大きな転機となる。「この子たちを幸せに育てたい」。そう心に誓った時、彼の本当の酪農人生が始まった。

松原さんが実践しているのは、牛たちと共存できる酪農

「チーズづくり」と「生き方」は、きっと同じこと

酪農を生業にしようと決めた松原さんが次に見つけたのが、「チーズ」という答えだった。山で育った牛やヤギの命の恵みを、ただ搾乳して終わりにするのではなく、「何かのかたちにして、きちんと責任を持って届けたい」と考えたときに、チーズづくりは自然な選択肢に思えたという。

だが、道のりは決して平坦ではなかった。技術の蓄積も、販路も、すべてがゼロからのスタート。資金的な余裕もなく、最初の2年は、持っているお金をすべてチーズの製造に投じた。時には「ここまでやって、やっぱりダメだったらどうしよう」という不安にも駆られたが、それでも「目の前の牛やヤギたちを大切に育てることを手放したくなかった」と松原さんは振り返る。

「自然と向き合い、命と向き合うチーズづくり」という理念は、単なるスローガンではない。毎日、気温も湿度も変わるなかで、ミルクの状態に寄り添い、熟成の進み具合を見極め、時間と対話しながら「美味しさの完成点」を見つけていく——その作業はまるで、命とともに生きる日々そのものだ。

「『生き方』と『チーズづくり』は、根っこの部分で同じなんですよ」。そう話す松原さんの表情は、どこまでも穏やかだった。

2013年国際チーズコンテストの銀賞を受賞「フロマージュ・ド・みらさか」

ミルクの声に耳を澄ませて

今や、全国から注文が寄せられる三良坂フロマージュだが、そのスタンスは昔と変わらない。大切にしているのは「量を増やす」ことではなく、「質を深める」こと。動物たちのストレスを抑え、自然と寄り添った営みを続けることが、結果として美味しいチーズにつながる。その確信を、これまでの年月が証明してきた。

チーズづくりの姿勢は今も昔も変わらない。「チーズって、ケーキ屋さんみたいに新しい商品をどんどん出す業種じゃないんです」と松原さん。けれど、三良坂フロマージュでは常時十数種類のチーズが並ぶ。季節ごとに新商品も登場する。「それは勉強のためだったり、チャレンジだったり。新しい味を楽しみにしてくださるお客様も多いんですよ」。

気候や環境、ミルクの個性と対話しながら、少しずつブラッシュアップを重ねる日々。完成を目指すのではなく、今この瞬間のベストを追い求めるスタンスが、松原さんの言葉にもにじむ。「昔は『自分がこういうチーズを作りたい』だったけど、今は『ミルクがどうなりたいか』という視点で考えるようになったかな」。チーズづくりの歩みは、どこまでも続いていく。

2015年国際チーズコンテストの銀賞を受賞「カレ・ド・ラヴォンド・シェーブル」

「つくる」ことを、次の世代へ

三良坂フロマージュが目指すのは、単なる工房や店舗の維持だけではない。国産チーズの価値を広げること、そして地域の営みとしてこの場所に根ざすことだ。松原さんは現在、全国のチーズ工房が集う「一般社団法人 日本チーズ協会」の会長を務めている。「立ち上げたばかりの協会ですけど、全国で約350あるチーズ工房の声を集め、技術支援や衛生管理の底上げ、行政との対話などを行っていきたい」と語る。

一方で、自身の家族や若い世代へバトンをつなぐことも考え始めている。チーズのこと、酪農のこと、山地酪農という自然との関わり。実際に工房には学びに来る若者もいる。「この場所で、次に何かを始めてくれる人がいたら嬉しいですよね」。松原さんは言う。ものづくりの背景には、時間の積み重ねと、人の手と、思いがある。それを「未来の誰か」に手渡すこともまた、ものづくりの一部なのだと。

三良坂フロマージュ

〒729-4302 広島県三次市三良坂町仁賀1617-1 地図を見る

営業時間/10:00~16:00
定休日/日曜日

OTHER STORIES

その他の物語

もっと見る

人、まち、社会の
つながりを進化させ、
心を動かす。
未来を動かす。